『宵闇』
ピンクのふわふわ帽子はマユの。
マユは小さいから帽子で守って上げなくちゃねってお母さんがゆった。
ちいちゃいマユは妹で、妹は守らなくちゃダメなんだい。
そう思ったから、マユの帽子が飛んじゃった時、慌てて追いかけたんだ。
ひらひらのマユの帽子。「シンッ!戻ってっ!」
「まゆのぼーしとってくる。おにいちゃんだからね」オーブの偉い人がいっぱいいろんなことをゆってた。
急いでお引越ししなくちゃダメだって。
とくにウチにはマユとシンがいるからって。
こーでぃねいたーがどーのれんごーがどーのって、お父さんが怖い顔で話してた。
でも、全然、判んない。
判ったのは『皆でお引越し』。
それだけ。ひらひらのマユの帽子を咥えて、しっかり掴みなおして。
「シン、早くっ」
お父さんが呼んでた。
急いで皆の所に帰ろうとした、その時。
真っ白な光とものすごい風に俺の体は吹き飛ばされた。
次に目を開けたそこには。
マッカナイロト、クロイイロト、ソレト……。
「うわぁあぁ〜んっ!!!」
「シンッ!!」
シンの叫び声に真っ先に飛び起きたのは、レイです。
こんなことは前にもありましたからね。
アカデミーやミネルバでは時々あったことです。
レイは知っています。アカデミーに来る前にシンはオーブで家族を皆失っています。
コーディネイタードッグとはいえ、パートナータイプのシンにとって目の前で家族が殺されるということはキャパシティを超えていただろう。
自己防衛のためにシンはそれを普段忘れているんです。
その事実は知ってても、その衝撃は忘れたことにしているんです。でも。
時折、寝ているとその記憶はシンの中に湧き出してしまうんです。
だから、こんな風に夜中に叫びだしてしまうんです。困ったな。
レイはちょっと戸惑いました。
アカデミーやミネルバ、そして、今の乗艦であるブリュンヒルデにいる時なら軍医に頼んで安定剤を打って貰うこともできます。
けれど、いくら国防総監のお家でもこの家に安定剤なんてあるはずもありません。
そもそも元隊長に出会ってからシンはあまり夜中にこんな風に叫んだりはしてないですからね。
わんわん泣くことはあっても。それに。
レイの良いお耳はお隣でお二人が大人の時間真っ最中だったことを知っています。
安定剤をお二人に探してもらったり、どうにかしてもらう、なんていう選択肢はあまり考えていませんよ。「シン、起きろ。シン、大丈夫だから」
でも、そんなレイの声はシンには全く聞こえてないみたいです。
お耳に痛い言葉になっていない叫びは、そのまんま、シンの心の痛みだって。
レイには判ります。
でも、このままだとちょっと困ります。「うわぁぁぁぁぁぁあぁんっ」
シンの泣き声は最初よりは小さくなりましたけど、それでも、多分、もう元隊長や隊長は気づいてしまったことでしょう。
どうしよう。
途方にくれて見上げたお隣につながる扉がゆっくりと開きました。
「どうした、レイ」
ローブを着て身支度を調えた隊長がゆっくりと入ってきました。
レイに抱えられて、それでもわんわん泣いてる子わんこを見て、一つため息。
こんな時、慌てて入ってくるのは元隊長ですけど。ああ、動けないんですね。
とは、お利口なレイは云いませんよ。
これまでにアカデミーからずっと続いているシンのことを掻い摘んで話すと、隊長は「そうか」とだけ。
そして、抱えているレイの腕をポンポンと叩いて。「あとはあいつがする。すまなかったな、夜中に」
と、レイの腕から子わんこをひょいと抱き取りました。
うぐうぐうぐうぐ。
まだ、泣いている子わんこをひょいと覗き込んだ旦那様が、汗で貼りついた前髪を上げてやろうとした時。薄く、本当に薄く、シンの目が開きました。
「おい、小僧。目が覚めたのか?」
人騒がせだな、って、軽く云おうとした旦那様。
でも、シンの目は覚めたわけじゃなくて。
あんなことがなければ、綺麗に澄んだ青い空。
そこに煌いた、一線の白い影。
「っつ……」
「シンッ、隊長っ」
かぷり。
痛くはないけれど、シンが隊長を噛むなんて考えられません。
でも、うぐうぐのまま、かぷっと。
うーうー云ってるシンは何を云ってるのか判りませんけど、それでも、隊長を噛んでるんじゃないってことだけは判りました。
どうにかしてシンの口を開かせようとしているレイに手振りで「いいから」
と告げて。
「いいから、寝ていろ」
左手をシンに噛まれたまま、旦那様はシンを連れてお隣の自分たちの寝室に入っていきました。
かたり。
寝室の扉を開けると、ベッドの上でそれでも身支度だけは整えたアスランが心配そうに旦那様を見上げていました。
「イザーク……」
「なんだ、貴様までそんな表情をして」
うぐうぐの子わんこはかぷりと噛んだまま、やっぱり夢の中。
涙でぐちゃぐちゃの顔を丁寧にぬぐってやりながら、ご主人様まで半泣きです。
「イザーク……腕……」
「気にするな、痛くはない」
子わんこが噛んだ腕を顎に手をあててはずすと、うっすら血がにじんでいます。
こんな、噛んでも血がにじむ程度の牙しかない子わんこの中にいったい、どれだけの『哀しみ』が詰まっているのだろうって、ご主人様は考えます。
そんな子を道具に使って、しなきゃいけない戦争って一体、なんなんだろう。そして。
「オーブから来た当初はよくこうなってたらしいんだ」
「らしいな」
「そうだよな。俺なんて、目の前で母上が死んだわけじゃないのに、すごく悲しかった。ザフトに入ってから父上が亡くなった時だって、その瞬間を俺は見ていたわけじゃない。なのに、悲しくて辛かった」
「そうだな」
ご主人様が云いたいことはよく判ります。
でも、それすらも超越してここにあるのがアスラン・ザラなんだと旦那様は思っています。
「あの時、フリーダムだけじゃなくて、ジャスティスもオーブにいた。もしかしたらシンの家族を殺したのは俺かも知れない」
たまたまシンの視界に入らなかっただけで、もしかしたら、それが真実かもしれない。
MS戦の流れ弾なんて、どの機体が撃ったかなんて判るわけがないんです。
知らない誰かの、知らない家族を殺してしまった瞬間。
でも、それが知っている誰かの大切な家族だったっていうこともあるのです。シンは。
「シンは、それでも俺に『大好き』って云ってくれるんだ」
大好きなアスランさん。
一緒にいてね。
ご主人様になってね。
旦那様の腕の中の子わんこをそっと抱きしめながら、ご主人様はひっそりと泣きます。
ミルクの匂いのするシン。
きゃんきゃん鳴いて元気なシン。
もしかしたら、あったかも知れない別のシンの幸せを奪ってしまったのは自分かもしれないのに。
いや、確実に自分の『家族』が原因でシンの『家族』は失われてしまったのに。
大好きだよって。
アスランさんがいて幸せだよって。
ひっそりと泣くご主人様を旦那様は空いてる左手で抱き寄せます。
子わんこに噛まれた左手。
それは多くの『敵』を撃破してきた旦那様の数ある棘のひとつ。
これからも旦那様は必要があれば出撃するでしょう。
プラントに害意を持つものを討ち続けるでしょう。
でも。
それすらも踏み越えていく覚悟を決めてしまったのです。たとえ、こんな風に泣くものがいたとしても、自分の誰かを泣かさぬために。
一刻も早くすべてを終わらせ復興に向かうために。
旦那様は決めたのです。
アスラン・ザラを伴侶に決めたその時から。
こんな愚かしい戦いを早く終わらせ、プラントも地球も関係のない、真の平和を勝ち取るのだと。
そうしない限りこの連鎖は続く。
連鎖が続く限り、愚かにも過去の偶像(パトリック・ザラ)に縋るものたちに愛しいものが振り回されてしまうということ。強くて綺麗で愚かなアスランは。
とうてい、家族を切ることはできない。
そして、そんなことはさせたくはない。
子わんこが泣いた夜。
それは、いつもの夜であり、決意の夜でもあるのです。
【FIN】